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2016/09 Mountain Goat and Glacier

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2016年 9月 マウンテンゴートと氷河

願わくばゴートと氷河の写真を撮りたい。マウンテンゴートの撮影理由など、僕にとっては今更どうでもいいのだが、氷河について言えば、それがゴートの生息環境の生みの親であり、ロッキーの高山帯の象徴的存在だからだ。もちろん氷河という氷塊そのものが、美しく絵的だからでもある。

以前にも書いたが、僕は自称道楽写真家。自分が納得する作品を追及することを信条としている。職業だからぜんぜん売れないのでは困るが、道楽だから売れるかどうかなどとみみっちいことを気にしてはならない。信条が贅沢すぎて、家庭経済は一向に贅沢にならない。

僕は自分の写真が教育や環境保護に、あるいは人々の喜びや癒しに利用されることは大いに歓迎するし、お金を払ってくださる企業や個人には深く感謝している。でもそれは、撮影の結果でいいと思っていた。たとえ利己的で傲慢であると言われても、撮影の原点は、マウンテンゴートの画像を創りたい、ただそれだけだった。

ところが、だ。僕の第二のふるさとであるグレイシャー国立公園の氷河消失まであと15年、とカウントダウンされると、道楽の信条は揺らぎ始めた。7000年も途絶えることなくロッキーの山々を削ってきた氷河が、今、消えようとしているのだ。その氷河と、氷河とともに歩んできたマウンテンゴートの雄姿を誰かのために、できれば多くの人に発信し、未来に残したいと思うようになった。かくしてこの熱血オヤジは、スペリーグレイシャーにやってきた。「それを俺がやらずして、誰がやるというのだ!」と、拳を振り上げながら。

スペリーグレイシャーの末端周辺は氷河が消えてから年月が浅いので、植物はほとんど見当たらない。むき出しの岩盤と、氷河に運ばれた岩がごつごつと堆積している。前々回も、前回も、今回もゴートの糞や足跡を見ていない。餌となる植物がなければ、ゴートもそれほど足を運ぶことはないのだろう。また空振りか。そもそも簡単に撮れる絵柄でないのは承知のうえだ。

氷河の撮影がひと段落して、妻と昼食を食べていると、突然妻が僕の頭越しに指差し「ゴートだ!」と声をあげた。振り返り、目を凝らすと、それはまさにマウンテンゴート。白く輝く親子が岩ガレに立つ。偶然でしょ、ラッキーでしたね、などと思われるのははなはだ不本意。こんな時、人は「思い」が通じたと信ずるものだ。

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ゴートまでは直線で200メートル以上。僕が氷河とゴートの延長線上に位置して両者を撮るには、相当な距離を移動しなければならない。しかも素早く、かつ彼らを驚かさぬよう。僕はチェストバッグとバックパックに機材を放り込み、歩き始めた。競歩選手のように。

氷河が溶けて現れた地形だから、岩の大地には幾筋もの細かい切れ込みや沢があり、それを渡るのに時間がかかる。無理をしてドジを踏めば、滑落して岩に体をぶつけてしまう。機材を壊すかもしれないし、大けがをするかもしれない。だから、ゴートから見えないところでは安全なところを走って何度も大回り。そして岩をよじ登る。競歩から一転、障害物競争。標高2500メートル。酸素がそれほど薄いわけではないが、トシだから息があがり、心臓はバクバクと踊る。しかし、このチャンスは逃してはならない、たとえ倒れても。十分な距離があるときは大胆に接近しても、最終局面ではカタツムリのように速度を落とす。そして、彼らの動きのルートを読み、背景に氷河が入る場所で待つ。

ビンゴ!!ゴートが現れた。すぐに目が合い、ゴートがこちらを品定めする。幸い、母親はニンゲンがそれほど危険ではないことを知っているようだ。僕はゆっくりとカメラを持ち上げ、ファインダーの画像を見る。マウンテンゴートと氷河。その光景はやはり、自分の道楽に留めておくべきものではないような気がした。

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